冨屋金兵衛邸

冨屋金兵衛邸は、土佐を脱藩した坂本龍馬が四国最後の夜を過ごしたとされています。

冨屋金兵衛 (とみやきんべえ)(てい)について

冨屋金兵衛は長浜の仁久に生まれ育ち、その後本町1丁目へ分家して紺屋を営んでおりました。ここに、土佐勤王の志士で脱藩をした吉村虎太郎と坂本龍馬が泊まっているのです。
その証拠が、次の二つの文書です。

①吉村虎太郎から冨屋金兵衛に宛てた手紙

②大洲の福井清さんが入手した「覚、関雄之助口供之事」(澤村惣之丞口述の記)

(①②は展示室の展示品で詳しく紹介)

があり、金兵衛宅で泊まり、ひそかに船で上関へ渡り、長州へ、そして京都へ向かったのです。冨屋金兵衛が、土佐の志士を泊めたということは、大洲藩が勤王藩であったことに相通ずるものがあるように思われます。
冨屋金兵衛はこの手紙の年より2年後の文久4年正月11日亡くなりました。今も紺屋にあった大きな壷が、子孫の冨田運夫さん方に残っております。


長浜の歴史(人物編) より抜粋
発 行 平成5年12月10日
発行所 長浜町教育委員会
著 者 久保七郎


龍馬脱藩の宿泊地に石碑

記事には、大洲史談会が冨屋金兵衛邸に石碑を建立した紹介の他、龍馬の脱藩や、大洲史談会の村上恒夫先生たちが資料を元に調査を行い、脱藩時に龍馬が当邸に宿泊したことを昭和63年に解明したこと。冨屋金兵衛について紹介していただいております。

軸装した吉村虎太郎の「手紙」を持つ冨田運夫

父 故冨田運夫は妻と共に、来客の龍馬ファンに「手紙」を展覧し、幕末の英雄坂本龍馬が上がった二階8畳の間で、四国最後の夜をを過ごした史実を語りました。

1991年5月1日付愛媛新聞「龍馬脱藩の宿泊地に石碑」

冨屋金兵衛と龍馬

金兵衛は勤王の共鳴者で、ひそかに訪ねてくる志士の面倒を見ていて、天誅組総裁の吉村虎太郎をはじめ坂本龍馬もその中の一人でした。

坂本龍馬が、当時長浜にあった大洲藩の船番所という難関をすり抜けて長州に渡ることができたのも、冨屋金兵衛の力によるものです。

吉村虎太郎は何度か冨屋金兵衛を訪れていたようですが、その吉村虎太郎が坂本龍馬を紹介した手紙が、当邸の資料展示室にありますので、ぜひご覧ください。

冨屋金兵衛邸とゆかりの人々

ここから維新の夜明けが始まった。

坂本龍馬(1835~1867)

土佐国土佐郡上街本町一丁目の土佐藩郷士(下級武士)坂本家に、父平八、母幸の次男として生まれる。龍馬は通称で、実名は直柔(なおなり)。坂本家は豪商才谷屋の分家で、非常に裕福な家庭だった。

文久2年3月24日、沢村惣之丞とともに脱藩。途中、檮原の那須俊平・信吾父子の家に宿泊し、26日には伊予国との国境の韮ヶ峠を越え、旧河辺村の榎ヶ峠(現在の大洲市)に入った。奥深い山道を抜け、翌27日に、当時の川舟による交通の要所として栄えていた旧宿間村の亀の甲(現在の内子町)で道案内人の那須俊平と別れて川舟に乗り、小田川、肱川を下り長浜(江湖の港)に着いた。その晩、冨屋金兵衛邸に宿泊し、翌朝、長浜港から船で長州へ旅打田といわれている。

脱藩後、勝海舟の門下生となって大きな影響を受け、亀山社中(のちの海援隊)の設立、薩長同盟の成立、大政奉還の推進などに力を尽くし、維新の指導者として活躍したが、慶応3年11月15日、京都の近江屋で何者かに暗殺された。

冨屋金兵衛邸に泊まり、手紙を書いた

吉村虎太郎(1843~1868)

土佐国土佐郡潮江村の浪人の子として生まれる。間崎哲馬に師事して学問を学び、その後土佐勤王党に加入。

文久2年3月、吉村虎太郎とともに脱藩。武市半平太への現状報告のため一時帰国するが、坂本龍馬と再び脱藩。坂本龍馬と行動を共にし、龍馬の片腕となって活躍した。特に英語が堪能で、海援隊では外人応対掛の重要ポストを務めた。

龍馬の死後、沢村ら海援隊の人間が中心となって、維新の混乱から奉行が退散した長崎奉行所を占拠し、長崎の町を警備した。その際、薩摩藩士を誤殺してしまい、その責任を負って切腹した。

龍馬と共に脱藩し、行動を共にした

沢村惣之丞(1837~1863)

土佐国高岡郡北川村の床屋の家に生まれる。父の跡を継いで床屋になり、それぞれの任地で治績を挙げた。その間修学にも務め、武市半平太の門に出入りした。文久元年、土佐勤王党に加入。

伏見挙兵計画に参加するため、文久2年3月宮地宜蔵と約して脱藩。長浜に祝泊したのち、4月23日、同志と伏見に集結したが、寺田屋事件のため計画が破れ、捕縛される。

文久3年、明治天皇の叔父にあたる中山忠光を擁立して、天誅組を結成。大和で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変し、幕府軍に追われ逃げ場をなくして、戦死した。


冨屋金兵衛邸の展示紹介

石碑

平成3年4月30日に長浜史談会により“龍馬宿泊”を示す石碑が建てられました。

龍馬の足跡をたどる上での目印となっています。

肘木と看板

肘木は約180年前に建てられて金兵衛邸に使われたものをそのまま使用しています。社寺建築で、斗ますとともに斗栱ときようを構成する腕木状の水平材。斗、または桁けたを受ける。彫刻された肘木は珍しい。

看板は、全国龍馬社中会長 橋本邦健様による書。

資料展示室

龍馬ゆかりの貴重な資料を展示 しています。